2014年2月22日土曜日

ソチ五輪に寄せて スキーの思い出

ソチ五輪ももうすぐ終わる。
普段目にすることのないさまざまな競技を見るのは楽しいものだ。
冬季五輪の種目に関心を持つようになったのは、やはり長野からだろうか。

あの時は、何気なくテレビを点けたら、
里谷多英選手がものすごいスピードでこぶこぶの斜面を降りてきて、
「里谷、金メダル!」
の絶叫を聞いてびっくりしたのだった。

スキーは、小学校に上がるころから中学くらいまでやっていた。
やっていた、と言ったって、シーズン中1~2回、
父が会社の人たちと行くスキー旅行に連れて行ってもらっていた、と言う程度。

最初のスキーは木製、紐で靴を縛りつける、という時代。
父は、直滑降とボーゲン(のようなもの)を教えると、
「止まれなくなったら、転んで止まれ」
と言い置いて、リフトで上のほうに滑りに行ってしまい、
私たちは下のほうで、ころころと転んでいた。
父は時々戻ってくると、私たちを一人ずつ後ろから抱える格好で、
自分のスキーの間に挟み、いっしょにロープトウで上に上がり、
だ~っと一緒に滑り降りてくれ、そのスピードがとても気持ちよかった。

スキー自体はわりあい好きだったけれど、そこにたどり着くまでが好きではなかった。
夜行バスならまだいいのだが、夜行列車となると、
子どもであっても自分の荷物を担いでいくし(板は持ってもらったかもしれない)
荷物を減らすためにスキーの靴を履いて、速足の父を追いかけなければならなかった。
(当時の靴は、今のトレッキングシューズのような紐靴であった)

だから、中学くらいまでは毎年参加していたスキー旅行も、
勉強やほかの事に興味が移るにつれ、行かなくなった。

大学を卒業するとき、同じ研究室の友人たちとスキーに行こう、という話になり、
久しぶりにゲレンデに出た。
道具を借りようとして、その様変わりにびっくり。
足首までがっちりしてかかとが上がった樹脂製の靴に板のビンディング。

転んで止まろうとしたら足首折れるのじゃ?

おっかなびっくり、それでも昔取った杵柄、それなりに楽しい時間を過ごした。
最後の午後、みんなでいっしょに滑ろう、となって連れて行かれた斜面が、
例のコブコブ斜面だった。
今でこそ、モーグルの斜面といえば誰でもわかるだろうけど、
30年以上前、そんなものは知らなかったし、攻略法はさっぱりわからなかった。
まずここ、次にこっち、といちいち教えてもらいながら、なんとか下まで降りたものの、もう2度とごめんだと思ったものだ。

だから、里谷選手の金メダルはとてもまぶしかった。

ソチでは、上村愛子選手がメダルを逃したものの、すばらしい滑りを見せてくれた。
採点競技でのルール変更は、各国連盟の力関係を反映するから、
そういう中で自分の立ち位置はわかっていただろう。
すべての選手がベストを尽くす中でメダルが取れるのが望ましいという思いが
あの清清しさになったと思う。

自分ではもうしないと思うけど、スキーはいいね、と思わせてくれた笑顔だった。

2014年2月13日木曜日

練習は本番のように

ソチ五輪たけなわである。

こういう時、よく耳にするフレーズに
「練習通りに本番でできれば」
というのがある。

これを聞くと思い出すのが、もう何年も前のことになるが、
ロス五輪金メダリストの森末慎二さんがラジオで話していたことだ。

森末さんによると、本番で上がらない人間はいない。
自覚的にははぜーんぜん上がっていなくても、
身体はいつもと違う雰囲気に敏感に反応してしまうものなのだそうだ。
体操の場合だと、鉄棒で回転するとどこかに飛んで行きそうになるほど
力が出てしまったりする。
その状態で、普段通りの演技などできるわけがないのだ、という。

なら、どうするか?
本番で練習のようにやるのではなく、
練習から本番のようにやっておく
というのだ。

これは実はすごく難しいことだと思う。
特にオリンピックのように特殊な舞台がどんな環境になるか想像するのは困難だろう。
それでも今は昔に比べて情報量は豊富だし環境作りの手段も増えた。
ほんばんに弱い日本人選手をつかまえて、メンタル、メンタル言うだけでなく、
もっともっと戦略的にサポートしてあげればいいのにな。

なんにせよ、この後試合のある選手たちが、悔いのない戦いができますように。